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2005年06月12日

戯言を「たわごと」と読む運動

語感

「大辞林 第二版」より
|ぎげん 0 【戯言】|ふざけて言う言葉。冗談。|「―を弄する」

たわごと たは― 0 【▽戯言】〔古くは「たはこと」と清音〕ばかげた言葉。しれごと。たわむれごと。「そんな―を聞いている暇はない」

読み方を脳内で変えるだけで文章の印象が違ってくる事ってよくありますよね。
基本的には自己弁護の単語として使われる事が多く、私の日記で言うところの「どうでもいいですが」「関係ないですが」に当たります。
ま、個人の書きたい放題な日記など前提からして「どうでもいいですが」であり、つまりは「たわごと」なのです。
そこをあえて「どうでもいいですが」と書いてしまう精神は、やはり自己弁護、責任回避であり、あまり好ましい物とは言えないでしょう。
しかし、未だそうでなければ自身の考えを主張できないレベルにしか居ないのであれば、むしろそれを積極的に利用して意見を発表する事により得られる物もありましょう。
何も行動しなければ成長する事はできないのですから。
しかし、いつかはそこから一歩踏み出さなければそれ以上は進む事ができません。
私が戯言を捨てる事ができる時はいつになるのでしょう。

さてさてこの単語は言うまでも無く上の例にある通り、「ざれごと」とは読みません。
一般的には「たわごと」ではないでしょうか。
「ぎげん」はあまり聞きませんね。
当然の話ですが、「ざれごと」は「戯れ言」です。
こうして強調している意図は、言うまでも無く私が勘違いをしていたからであって、気を付けないといけないなあという事です。

もちろん、このような誤解を持つ事へと至った原因である西尾維新氏の「戯言シリーズ」は固有名詞なのでこれでも有りですが。
ただし、意味的には「戯言(ぎげん)」も「戯れ言」も「冗談」といったニュアンスは同じなので発音さえしなければ問題は無さそうです。
しかし、一体どこで「戯言=ざれごと」と刷り込まれる事になったのだろう。
クビキリサイクル中に振り仮名が付いていたのかな。

いつか見た小説

WikiPediaなど眺めていますと、最近まともなストーリー本を全く読んでいない事を実感します。
そこで思い出すは舞城王太郎の九十九十九。
既に物語の大半を覚えていないあの小説は主に授業中に読んでいた事もあり、とても印象深い本の一冊です。
今までも何度か書いた記憶がありますが、正直な感想を書くと「全く面白く無い」本なのですが、
あそこまで滅茶苦茶に展開する物語はそれまでの私が関わった事の無いジャンルであり、読み終えた後の衝撃は未だに影響を残しています。

しかし、読みたくなるような小説が無いんですよね。
まず、ライトノベルは除外。
理由はシンプルで、面白そうな物が全く無いから。
そして、一般小説なんですが、
ごめんなさい、捜すのが面倒なだけです。
そうでなくとも読めば読む程読まなければいけない本が増えている現在、あんまり本にばかりリソースも割り振れないわけでして。

もちろん言い訳です。読みたいのならそれでも読めばいいのですから。
結局私は今、昔読んだ本を思い出して懐かしむ事はしても、小説を読みたいとは思っていないのでしょう。

投稿者 miff : 2005年06月12日 15:30

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